私はよく言う霊が見えるとかそういうタイプではありません。
ただ、私の周りには、霊が見えるという人たちや、事故現場に行くと事故当時の映像が頭に入ってくるとか、そういう霊感が強いという人たちがいるので、霊の世界があるんだという認識はしていました。
逆に、神社に行くと神様が本当にいるかいないか感じるという人もいたりして、怖いのだけではなく、神様みたいな存在もいるのかもなぁとも思ってはいました。
でも、私自身はというと、そんな力がなくてよかったと内心かなりホッとして生きてきました。
おみくじを引くのも好きじゃないし、初詣も行ったり行かなかったり、お守りも買っても持ってるのが面倒なうえ、もらってもいつまでも放置、しまいには年月が経ちどうしていいか分からずごみ箱に捨てるという、そんな私にはいつか罰が当たるかも・・・ぐらいに思っていました。
芸術品としての仏像を見たりするのは嫌いではないけれど崇めるほどではないし、神社も家の近くには初詣に行くこともあるけれど、わざわざパワースポットとか聞いて行くほどでもないし、水晶のブレスレットやらそんなのもずっと着けているのも嫌だし(あ、でも宝石は好きです笑)、そんなこんなな私でした。
しかし、あることがきっかけで、それまでの自分から別の自分への変化が始まりました。
東日本大震災です。
この大震災から影響を受けたのは、私だけではないでしょう。
当時私は地元福井に住んでおり、付き合っていた彼(現夫)は東京の会社で勤めていました。
気が気でないほど心配しました。
そして、地震だけではなく、津波の映像を見て、胸が引きちぎられそうなほどの悲しみと苦しみで心がいっぱいでした。
追い打ちをかけるような原発事故。
自分の、そして人間の力ではどうしようも出来ないほどの大災害に心を痛めない日はありませんでした。
私が出来ることと言えば、わずかばかりの寄付と当時英会話を教えていた子どもたちの笑顔を守って愛情をどこまでもかけてあげることしかありませんでした。
自分の非力さや放射能汚染でどこまでも汚れていく地球、いつまた起こるか分からない大災害、私や私たち人間は一体何のためにこのような苦しみのなか生かされているのだろうとどこまでも考えこんでしまっていました。
正直、何の被害も受けていない私が勝手にふさぎ込んでいくのもかなり変な話なんですけどね。
それまでも、自分は何で生きているのだろうとずっと考えて生きてきました。
大学生の時に出会った各地で講演をしてまわっているという不思議なおじさんに、「おまえは何のために生きているんだ?」と聞かれたことがあります。
私は上手く答えられませんでした。
「じゃあ、何の仕事がしたいんだ?」
当時迷いながら就職活動をしていた私は「教育の仕事がしたいです」と、か細く答えるのが精いっぱいでした。
「仕事という字はな、二通りある。
志のある志事、死んだようにする死事、
おまえはどちらの『しごと』がしたい?」
私は迷わず志事と答えました。
「志事がしたいなら、何のために自分が生きているのかを知らなければならん。
何のために生きているのかも分からんようでは、死事しかできん。」
これを聞いて、なるほどと思う反面、自分という人間の器の小ささにかなり凹みました。
この不思議なおじさんの言葉はずっと頭の片隅にあり、大震災を境にこの疑問に真正面から自分が向かい始めた感覚がありました。
しかし、あまりにも壮大であまりにも哲学的なこの問いに答えがなかなか出るはずもなく、しまいには生きていても死んでいても同じではないかというネガティブすぎる感覚がつきまとうようになりました。
気持ちが落ちるところまで落ちて、そこからこれはヤバいかもということが起こり始めました。
補足:スピリチュアルなことを認識する前の話なので、お守りなどを丁寧に扱っていなかったことを書きましたが、やはり持つからには大事に扱った方がいいと思います。だからといって、神様(と呼ばれている存在)が罰を与えることはないと認識していますが、人間以上の愛をかけてくださっているので、そのことには真摯にお応えするのが筋ではないかと個人的には思います。
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