(30) 神様らしき存在が伝えたかったこと。


神様らしき存在との交信があった次の日、早速『むさしの』という小説はないか調べてみました。


文学にあまり詳しくない私、調べてみるとありました!


国木田独歩の『武蔵野』。


「読んでみなされ」と言われたので、これは読まないと!と思い、読んでみました。


私はあまりこの時代の作品を読まないのであまり深く理解をしていないかもしれませんが、私の勝手な解釈をここでは書きます。


この作品の武蔵野の範囲は、今の東京23区の西部や神奈川、埼玉の一部を含む地域のようです。


国木田独歩は、自然主義文学の先駆者とも言われているようで、この『武蔵野』の作品も、昔のこの地域ののどかな美しい風景を描写しています。


そうは言っても、この作品が発表された明治31年には今ほどの範囲での都市化は進んでいないにせよ、万葉集に出てくる頃のような自然というのは少しずつ減ってきていたのでしょう。


「昔の武蔵野は萱原のはてなき光景をもつて絶類の美を鳴らしてゐたやうにいひ伝えてあるが、今の武蔵野は林である」と作品では書かれいます。


この林は、当時の薪炭の供給源とされていて、国木田は人間の生活圏と自然とが入り交じる田園地帯としての武蔵野を描こうとしていたようです。


そして、私が解釈するに、この作品を通して神様らしき存在が私に伝えたかったことは、本来、このようなバランスが人間が生きていくうえで望ましいということだということです。


人間として生きているうえで、人間中心になってしまうこともあるけれども、自然と共に生きていることを忘れてはいけない、けれども、人間を犠牲にした生き方もしてはいけない、バランス、つまり中庸を見つけなさいとということだと思います。


この作品は、当時にとっては新しい『武蔵野』を描こうとしていたと評価されています。


つまり、昔は自然豊かだった、だから良かったと昔を懐かしむのではなく、自然と共に地球と共に、人間が楽しく心豊かに生きていく新しい方法を見つけていきなさいよということを伝えたかったのだと思います。


人間を取るか、地球を取るか、そんな風にどちらかに偏ることなく、楽しく生きていく、そんな生き方をしていきたいと思いました。