この摩賀多神社では変わったおじさんに会いました。
手を握ると人の気持ちを読めるとおっしゃっていました。
そのおじさんは私の手を握り、
「あんたの手は冷たい。目も冷たい。心も冷たい。シラケ切っている。」
と話し、さらに手相を見て、
「変わった手相をしている。生きているのか死んでいるのかわからない。」
と。
私は今まで「心が冷たい」とは誰にも言われたことがありませんでした。
でも、どこかで自分は冷たい人間じゃないかと思っていたのと、生きていても死んでも同じじゃないかと思っていた時期もあったので、なんだか心の奥をつかれたような気がして泣けてきました。
私は大勢の友達と出かけてもそんなにテンションがあがるタイプじゃないし、自分のエゴばかりで人のためと言いながら自分のことしか考えていない人ばかりにホトホト嫌になることもあるし、こうやって人の気持ちを考えずにズケズケものを言ってきて人を助けた気になっているような人間にも嫌気がさします。
そして、こういうことをすべて許して微笑んでいられる人間にならないといけないと思いながら、実はなりたいなんて思っていない自分がいることにも気が付いています。
あー!仏さんにはなれないし、腹が立つものは腹が立つし、シラケるもんはシラケるんだ!
言われた時にはショックでしたが、家に帰ってからそのことに妙に納得しました。
そのおじさんから離れた後、まだお参りをしていなかった別の小さな宮でお参りをすると、女性の神様の声で
「気づきを与えてくれるきっかけではあったけれど、言い過ぎよね。大丈夫よ。」
と慰めて下さいました。
優しすぎる・・・そして、また涙しました。
後日、Midoriさんにこのお話をすると、
「そこで気が付いたことを宣言するための出来事だったんじゃないでしょうか?誰の心の中にも両極があるんだと思います。」
とおっしゃてくださいました。
つまり、人間の中にあるその両極の所在を認めて、人と対峙していくことを私が認識する必要性があるということ。
ついつい、闇を認めず、光だけを追い求めてしまう。
でも、どんな闇にも光はあり、どんな光にも闇はある。
人間は両極をもつ存在であり、自分の中にもその両極があることを受け入れること。
この出来事は、以前にも書いたこの課題(←クリックをすると飛びます)がまだ続いていたということでした。
学ぶことはまだまだたくさんあるのです。
ちなみにあのおじさんは「人の気持ちを読めるようになりたい人」だったようです。
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