あなたは眩いばかりに美しい存在なのだから。

 

 

文章を書くってなかなか気まぐれな作業で、気分が乗るといくらでも書けるし、気分が乗らないと一文字も出てこない。そして、気分が乗ってくると書けるような状況でなかったりするし、じゃあ後で書こうと思うと、もうその時はとっくに旬を過ぎている。頭の中には何もない。もう古いエネルギーで、生き生きとして文章を書くことはできない。だから、毎日文章を書いている人、書くことを仕事としている人はすごいと思う。常に気分が乗っている人なのか、それとも再現することが得意なのか。書き貯めをしていたことがあったが、翌日にその文章を見るともう違うのだ。何かが違う。心が動かされない。まぁ、そんなたいそうな文章を書いているのかって話なのだが、他人から見てどうかというよりも、自分がそう感じてしまうのだからどうしようもない。

 

文章もエネルギーなのだ。そして、私たちは日々何かしらのエネルギーを生み出し、何かしらのエネルギーを受けながら生きている。なぜなら、私たちそのものがエネルギーだから。実際のところ、私たちには体温があるわけで熱もエネルギーの一種なので、物理的にエネルギーを発して生きているのは確かだ。じゃあ、私たちの感情は?思考は?これらもエネルギーなのか?答えはイエス。すべてはエネルギーだ。感情も思考もエネルギーなので、物理的な何かを介すことなく、私たちは他者に影響を与え、また影響を受けている。量子学の分野ではこのことに関することが証明されているようだがら、詳しいことを知りたい方はご自分で調べて頂くことにして、ここで大事なのは、私たちは確実にエネルギーの影響の下に生きているということである。つまり、私たち人間はエネルギーの影響を与え合いながら生きている、そう言える。

 

 

エネルギーの影響を与え合いながら生きている、なんとも興味深い響きだろう。私たち人間は目に見えない部分でも支え合いながら生きている。お葬式に参列させて頂くとそのことを強く感じる。お坊さんのお経、そして参列者の方々からのお悔やみの思いが、ご遺族の悲しみに優しく働きかけているのを感じる。一人ひとりの思いが悲しみを癒そうとしているのだ。また故人も同じく、残されたご遺族の気持ちに寄り添っている。目にはっきりと見えるものではない。でも、そこには確かに目に見えないけれども、支え合いのエネルギーがある。今すぐには愛する人を失った悲しみは癒えない。でも時と共にその支え合いのエネルギーは優しく染み渡っていくのだろう。

 

私は人間が発する慈しみ愛のエネルギーは、本当に温かく美しいものだと思う。自分という存在を越えて、相手を思いやる、相手を愛す、相手を癒す、素晴らしいエネルギーなのだ。このエネルギーは、一人の例外もなく本来すべての人が兼ね備えているもの。眩いばかりにゴージャスに輝く光なのだ。でも、その光を自分が持っていることを多くの人が忘れている。自分には光などないと。そんなものはキリストやブッダなど特別な人間が持っていたという昔話だろうと。そんなことはない。キリストもブッダもただの人間だと私は思う。彼らはただ真実を知っていただけだろう。すべての人は光り輝く存在だと。

 

 

エネルギーを使って人を癒す、それは特別なことではない。特別な人にしかできないことでは断じてない。すでにあなたはそれをしている。ただそれに気づいていないだけ。そして、ただあなたにも光があることを忘れているだけ。ではどうやって思い出していったらいいのだろうか。それは、相手を思いやる前に自分を思いやることだ。相手を愛す前に自分を愛すことだ。相手を癒す前に自分を癒すことだ。あなたは無条件に愛されるべき存在だ。そんなあなたをあなた自身は大切にしているだろうか?毎日何度自分を否定するだろうか?毎日あなたの心を酷使していないだろうか?目の前に困っている人がいたら手を差し伸べない理由はない。それと同じで、癒しを必要としている自分に癒しを与えない理由はない。自分に癒しの許可を出せるのは自分しかいない。自分を愛す許可を出せるのも自分だけだ。他者からの愛は大きな癒しだ。しかし、真の愛は自分が自分を愛すことからでしか成り立たない。自分が自分を愛していないのに、どうやって他者からの愛を素直に受け取ることができるだろうか。他者に与えるだけの愛がいかほどあると言うのだろうか。それではいつか愛が枯渇してしまうに違いない。

 

 

「愛」と聞くとなんだか照れくさいような、わざとらしいような、そんな気持ちにさせられる人も多いかもしれない。私たち日本人にはあまり聞きなれない言葉だからだ。I love youと家族で言うような習慣もないし、愛を語るという文化でもない。でも、私たち日本人は、「心」や「思いやり」など愛を別の言葉で語る文化がある。ニュアンスが違うだけだ。愛にはいろんなカタチがある。だから愛は個々人でいかように捉えてもいいものだと思う。その人にはその人の表現法がある。だから、「自分自身を愛する」というものをこそばゆいものと捉えずに、自分に合ったニュアンスで理解してほしいと思う。理解の段階に応じて、その表現も変化していくものだろうとも思う。そして、自分の光の美しさに気づいていってほしいと思う。あなたは眩いばかりに美しい存在なのだから。