毎瞬の判断と選択で私たちは生きているが、どの選択も間違いではないという事実。

 

私たちは、毎瞬毎瞬の選択のもとに生きている。

 

目覚まし通りに起きようか、あともう5分寝ようか。

朝食にお米を食べようか、パンを食べようか。

いつも通りの道で職場に行こうか、いつもと違う道を通ろうか。

上司の話を素直に聞こうか、聞き流そうか。

 

どんな些細なことも、すべて一瞬で判断し、一瞬で選択している。習慣化していることに関しては、選択をしているという事実にすら気づかないかもしれない。毎朝コーヒーを飲むことを習慣としているのであれば、朝に紅茶を飲むという選択肢はそもそも存在しないだろう。日本茶もないだろう。「朝はコーヒーを飲むものだ」と常識のように頭にインプットされていれば、他を選択するという選択肢が入り込む隙はない。しかし、「朝はコーヒーを飲むものだ」というのは真理ではない。これは「選択」なのだ。でももしかしたら、コーヒーを飲むことは、いくらあなたの朝の目覚めに必要だと感じていたとしても、あなたの身体には合わないことかもしれない。それは、「コーヒーが身体に合わない」という出来事がこの世に存在するという発想がなければ、あなたの「選択」に影響を与えることはない。知らなければ、あなたの人生における選択になんら影響を与えることはなく、もしあなたが身体を壊したとしても、毎朝飲んでいるコーヒーがあなたの健康を脅かしているという事実にも気づかないだろう。

 

ちなみに私はコーヒーが大好きなので毎日飲んでいるw身体に合わないとわかったとしても、今のところ止める予定はなし!

 

 

当たり前だと思っていることに、なんの疑問も持たず生きるというのは、ある人にとっては快楽であり、ある人にとっては苦痛だと思う。当たり前を当たり前のこととして受け入れて生きるということは、変化を伴うことがないからだ。変化には多大なエネルギーが必要だ。そして、その変化の先には何が待ち受けているかは、今の地点からは想像もつかない。想像がつかないということを、恐れと捉えるか、楽しみと捉えるか、それによっても人に与えるストレスの種類や大きさは違ってくる。毎朝のコーヒーに疑問を持つか持たないか、それも人生の変化に対する選択なのだ。ただ、幸か不幸か、人間には変化がなければ進化も成長もない。それは健康になるか不健康になるかという肉体的な話に留まらない。意識の進化、つまり魂の成長へと繋がるものなのだ。

 

 

では、当たり前のように感じてる感情や思い、悩みは、いつもあって当然のものなのだろうか。毎回同じことで悩んでいる、それもそう感じること、そう悩むことは、本当に仕方がないことで、当たり前のことで、人生を通して抱いていないといけない感情なのだろうか。頻繁に同じような出来事に出くわすのも、本当にそういう運命のもとにあるのだろうか。それはもしかしたら習慣と同じようなものなのではないだろうか。もしかしたら、別の視点、別の捉え方、別の考え方、そして別の結果があるのではないだろうか。

 

 

すべては自分で選択することができる。そして、どの選択をしても間違いではないのも事実だ。